昭和41年02月25日 朝の御理解
信仰は芸術だと言われております。私も、それを本当にそうだと思います。芸術が美の追求なら、信仰は美の追求と同時に、有り難しの出る追求だと思う。そこには、さまざまな自分の心の使い方一つ、例えば、絵でいうならば、その絵筆の動かし方一つによってです、しかも、その絵筆一つに。その人のたましいまでが、乗り移ったのではなかろうかと思われる様な、見事な作品が次々に、出来上がって行く様に、私共の、心、心次第によって、自分の心の中に。
今まで腹の立つ事だと思うておった事が有り難いと云う事に成って来たり、損をしたと思うておったのが、徳をしたと分からせて頂く様になったり。本当にそのへんの、心の動きと言うものは実に微妙であり、その微妙な心が教えによってどの様にでも変化を来たす事が出来ると、変化を見せていく事が出来る。私はそういう意味においてです、確かに信仰は芸術だと言う風に、思うておりますしまた思って参りましたが。
昨日、大和さんのお宅の、宅祭りが毎年、2月24日に御座います。これは大和さんのところに、限ったことじゃ御座いませんのですけれども、その、信心の育て、育ち方というか、進め方というものが確かに進んで行っておられる、しかも一家を挙げて進んでいっておられるというのが、年々のそうしたお祭りの中に現れておる。それは、例えばお供えが見事になったとか。
と言った様な意味じゃありません。お参りが大変多かったと言うような意味だけでもありません。その内容、ね。「話を聞くばかりが能ではない、わが心からも練りだせ」と。和賀心からも練りださせて貰うと云う所にです、日々私は、この創作という言葉がありますね。創り出していくと云う事。例えば、芸術品なら芸術品がこう、生みなされ、作り出されて行くと云う事。
このへんの一つの、生きた微妙さと言った様なものがですね、昨日は、あの、お祭りに感じたんですけれども。はあ、ちょっとした例を申しますと。どうも時間が、お祭りにちょっと間に合いそうもなかったものですから、私も一緒に、神撰のお備え付けの、御用をさせて頂いた。私は自分でしませんけれども、やっぱ長い間、その、上手な先生方の盛り付けを見てきておりますからね。目だけは肥とる。だから、口上はやかましか。なら久保山先生がなさっても。
久富先生あたりがなさってももういわゆる口上をいう。で口上をいいよると言うだけ、又私も、これはこんなもんだと言う風に、それを自分で段々体得して来ておる。昨日私が盛らせて頂きました。野菜なんですけれども、まあ自分ながらに見事にでけた。どうですか久富先生、こう言う風にせにゃいけませんと(笑い)ね、お野菜はああ達は切り刻む事ばっかりしてから、そして何がどこにあるやら分らん。も盛るならばね。
もうどこからでん、神様の方から見ても、私共の方から見ても、もう皆んな一様にならないけん。しかも、この盛り上げてある中身は、何がどこにあると云う事が見える様に盛らにゃいけん。そして、こういう風にピラミッド型に、こう言う風に盛らにゃいけんというてその、まあさんざん私が自慢してからそれをしよる。ほんと見事にでけました、私がしたつはなんのいけんという筈はないですよね。そしてから、先生こうやって持っていかれておった途中でですね、ばらばらと崩れてしもうた。
ほんなこて、なんに引っ掛けたのち私が(笑い)いいましたら、なぁにも引っ掛けませんですよち。時に私は感じたんですね。あし、よし、その神様の前に、大和さんの真心をです。お取次させて頂いて、しかもそれを出来るだけ、見事に盛り上げてです、例えて言うならば、見事に味を付けてあるそのお料理をです、私が皿に盛り上げて、見た目にも、食べても味わえる様に、見た目にも見事にお皿にもって、御膳を作った様なもの。それを、途中で御給仕の人が取り落とした様なもの。私は本当に自分の心の中に、がくっとくるものを感じましたですね。
そして、只今盛らしておった通りのものを、そこに盛り上げ様としましたけれども、どっこい出来ないです。心の中に、私が頂いたのは結局、全部取り崩させて頂いてから、いわゆる始めっから、又やり直させて頂いたんですけれどもです、これはお花なんかをなさる方は特に、そこんところがあろうと思う。盛りなら盛り花、投げ入れなら投げ入れをです、自分の感覚できちっと、もう一分一厘の間違いない感覚で、そこに入れた時は素晴らしいんですけれども。
それを誰かが崩したからというて、いけないからというて取り除いたら、決してそのまま、その通りのものが出来る事じゃない。それよりも、もう一変取り除いてから、又、新たな感覚と、新たな、そのそのへんが微妙です、実にデリケートです。そう言う風に私はその、させて頂いてなるほどまた、見た目にも、全然違った形ではありますけれども、自分ながらよくでけたとこう、思う位又でけました。けれども、全然気分の違った盛り付けでした。これは。
昨日に限らず何時もその事を感じるのですけれどもです、私は今日、信仰は芸術だと云う事です。信仰は芸術だとこう、言われる所以なんです。成程そうだなと。自分の心次第で、生かすことも出来れば、殺す事も出来るのである。しかも成程話を聞くばかりが能ではない、和賀心からも練りだし、その日その日がです、私は自分の心次第によって、同じ材料でありましてもです。
その日の感じ、その日の有り難しの度合いに応じてです、おかげというものを創作していくんだと。成程楽しい、信心が楽しいと言われるのはこれだと私は思う。修行が楽しい。そりゃもう説明、説明すれば、何ですけれども。これはもうどこでん私は、昨日22日の日は、田主丸のむつやさん所の御霊様の式年祭でした。まあ最近は、その宅祭りが、どこもいわゆる恒例の祭りをなさいますから、もう日にちはもうずうっとお祭りは詰っとる。と云う程にあるんです。
私が、まあ一日それを奉仕させて頂く訳で御座いますけれども、そのお祭りのどこに参りましてもです、感じる事です。もう神様の働きのね、一分一厘間違いのない事。もうそれはね、皆さんが一緒に私と一緒に行動され、私と一緒にお祭りを奉仕されたり、拝まれたりする方達が、もしあの中から、なんという間違いのない神様だろうかと云う事を、もし皆さんの心にです。
キャッチしなさらなかったら、あなた方はもうおかげを受けられん。もう、どうもこうもですもう本当に迫る様にして、神様の生きた働きというものを、あのお祭りの雰囲気の中にこう、かもして下さる。雰囲気だけではない、実際のうえにです。ただの偶然とだけは言われない様な、働きを見せて下さる。こういう神様の働き、こういう、言わば、ここでいうならばです。
私共も随分、お祭りを拝んで参りましたけれども、これはまあ言うならば、私の信心。椛目とだから言わなきゃ仕方がありません。椛目で、例えば宅祭りでもなされる方がです、私を中心にして、お祭りの奉仕をさせて頂く以上です、ほんとにお祭りをさせて頂いて良かったあ、もういくら金が掛ったっちゃ、問題じゃあない、もう惜しげ悪し気が、あのお祭りの後になくなってしまう位のものが、あると云う事ですよ。
神様が、こんなにも喜んで下さる。神様がいけないとこは、いけないて。こんなにも御気付けを下さる。例えば、それが御霊様のお祭りであれ、霊祭であるならば、御霊がこんなにも生き生きと喜んでおる姿を、ここに現してくれると云う事をです、目の当たりに見、感じる事ができるでしょうが。もう昨日の、大和さんところの、宅祭りなんかでもそれを何時も思うんですね。
あそこにですね、私は椛目に御縁を頂いておる人達はそういう間違いのない、そういう働きを、現しておると同時に、銘々の一人一人の上にもそういう働きが、あっておると云う事。それを、お互いの心でキャッチしていかなければならないと。ね。夕べ、その事を皆さんにもお話したんですけれども。丁度ご神前のこの上に、新しい額がでけて、その額に入っておるのが、「大和する心」と書いてある。
大きく和する心と書いてある。私がです、二三ヶ月前でした。ここで奉仕させて頂いておりましたら、その大和する心と云う事を、その、何ともいえんその、玩味のあるというのでしょう、その字でこう頂くんですよ。ですから私はそのまま、あの白紙を出してから、頂いた感じのままに書かせて貰った。私が、下手ですから、実際私が御心眼に拝んだのはあんなもんじゃあなかった。けれどもまた、私だけが一人で書いたという字でもないとかんじた。大和する心と書いた。
そこへ大和さん達が二人で夫婦で参って来たんです。あら、大和する心とは大和と心と書いてある。はあ、この人達が参ってきよったけんこれを下さったばいな、これはこの人達に書き下げてやるんだなと思うて、私はそれを御理解をつけてあの、持たせて帰しました。それをさっそく額に入れて、まあ朝晩それを、大和する心、大和する心と言う風に、自分の心に頂いておられるだろうとこう思うのです。
おかげは和賀心にあり、和らぎ喜ぶ心にあると同じ事。信心は家庭に不和のなきが元なり。短冊がそこにかけてあります。信心は家庭に不和、和の和、不和のなきが元なのだ。信心の元はこの和なんだ。大和と。わざわざこの大きく和と書いてあるのはどう云う事だろう。これは自然、成り行き、言わば、地球上に現れて来る一切の働きと、自分の信心とが和しておるか、和していないか、それは、暑い、寒い、降るとか照るとか言った様な事にまで、密接な関係を持っておると云う事。
それと調和しておるか、どうかと云う事なんだ。私が、例えて言うならば、出かけようと思うた。今まで、もう真っ暗に今にも降りそうにあった、雲がです、晴れてから、ほんとこう、暖かい、まあいうならば日差しが、私の上に現れて来る。今まで降っておった、例えば雨が、私が出かけようと思うたら、降り止んだ。これも、矢張り中島の大和さんのところの向かいに。上滝さんていう人があります。
あちらの主人が粟粒結核で、えぇもう生きるか死ぬかの境をさまようておる時分に、私はまだここで修行中の時分でした。お話にいけと云う事を頂いてから、出かけた事があるもう夏の大変暑い日であった。まああの当時は一生懸命修行の時ですから、もう木陰に入っても神様はやかましかった。日陰のところを通るでもおると日陰を、そういう楽をしたいと言う様な心はもうだらくをする心の始まりぞと神様は仰りよった。
だからわざと暑いところ、暑いところへ寄ってこう、さあここで一服せよとおっしゃる時なんか、大きな石の上に、もうそれこそ焼き付く様な、石の上に一服腰かけてすると言う様な時代であった。ところがです、今日は、言わば神様が反対にです、私の上に働いて下さるんです。私はここから、あの、ふなばたを通って、鎮西橋を通り、大城橋を通って中島の方へ参ります、もうあちらに着くまで、私の上を大きな夏にあの雲の陰がつく、下に移るでしょうが。
暑い炎天の所、そこを雲の影の中を行くと涼しいんです。その雲がまるきり私を守って行ってくれておる様にです、ずうっと雲が動いてですね、中島に行くまで、雲の影の中でおかげ頂いた事が御座いました。と言う様にです、これは、言わば天地と調和しておるからです。そういう働きを、椛目の場合、何時の場合でもかんじるでしょうが。皆さんの働きの上にでも、お取次を頂いて、ああなさりこうなさった時です。
どうにも出来ないですよね。そういう言わば大きなものとの、和する心そういう心を目指しての信心でなからなければならない。勿論その元であります所の、信心は先ず家庭の中にあらなければならない。勿論家庭の中よりか自分自身の心に和する心がなからなければならない。それがおかげを頂く元だ。生神金光大神天地金乃神一心に願え、どうぞ一心に願え、一心に願えと云う事は、どうぞ私の心の中に和の心、しかもそれに喜びが伴うた、和らぎ喜ぶ心を頂かせて下されというて、一心に願うのじゃ。
今月今日で頼めい、今月今日ただ今を、願って行くのだとこう云う訳なんです。先ず自分の心、先ず自分の心の、心がそのまま家庭に現れる。それが言わばこの宇宙と継ながって行く。大和する心素晴らしい事ですね。そういうおかげをですそれはもう理想じゃない、空想じゃない現実の上において私共が現していけれる信心なのだ。椛目の場合はそれを、もうここに本当に現して行っておるんだと。
そういうものをです、特にあの、皆さんの真心が集中した、皆さんの宅祭りなんかの時に、それをよぉく心の中に感ずる事が出来るでしょうが。参拝のおかげを頂いたひとりひとりの者がです、ただお祭りのおかげを頂いただけではなくて、お祭りのおかげを頂く、それを感ずる事が出来ると云う事が有り難いでしょうが。いやあ、もう本当にこういう間違いのない親先生の、例えば祈りの中に働きの中に私達があるんだから、おかげの頂けんはずはないという、確信がいよいよつよなるでしょうが。
まあその中に、私が申しました。教祖の神様が、畑で肥えをかけておろうが、道を歩いておろうが、神の中を分けて通りおる様なじゃと。そういう実感の中に、お互いが信心させて貰わなければならない。それを、もすこし厳しく言うと、薄氷の上を渡る様な気持ち。一本歯の、歯の下駄を、履いて歩いておる様なもの。もっと厳しくいうならば。真剣の、言わば、この刃の上ですね、切れ目の上に立っておる様なもの。油断があったら切られる。油断があったら落ちる。油断があったら凍ると。
それは、大変厳しい事の様にあるけれども、それは私自身の上に、そういう気持ちで日々過ごさせて頂いておると云う事。皆さんが、はあ先生が、薄氷の上を渡り御座ると云った様な思いはないでしょうが。薄氷の刃の上に立っておられると云う様な、あぁそのものはないでしょうが。一本刃の歯の下駄を履いて御座ると云う様な、あ、その危なかしい様なものは見えないでしょうが。
だから私共銘々としてはそう云う様な心持ちで、信心をさせて頂くと云う事は、そんなに難しい事じゃない、神様を自分の心の中に頂き通す事なんだと云う事。そこに実感としてです、神の中を分けて通りおる様なものじゃと。朝露の一杯ある藪の中を分けて、ざわざわざわざわとこう渡って行く様な実感。その朝露が自分の言わば裾を濡らす様な実感、そういう中にです、私共はそれが清い所であろうが汚い所であろうが、美しい事をしておろうが汚い事をしておろうが、どういう中にあっても同じだと云う事。
そういう中に、おかげを頂くと云うこと。だから、厳しい様にあるけれども。実は厳しいんではない、実に楽しいんだと云うこと。なら油断も隙も出来んから、こうやって、張り切っておると、言った様な物ではなくてです、馬鹿話もしとりゃ、汚いこともしておるんだと私だって。けどもその中に、神様を頂き続けておるんだと云うこと。私が今日、皆さんに分かって頂きたいのは、今まで私は、この事は何回も申しましたですね。信心は芸術だという人があるが。
私もそれは同感だと。自分の心次第でそれを自由自在にです、自分の心というものを動かす事が出来る、使う事が出来るんだと。腹の立つ事でも有り難いと言う風に思える様なおかげを頂けれるんだという、( )感じたんですけれども、昨日その、お供えつけのその事を私は自分で感じてですたいね、私の例えば、自慢心を神様が崩しなさったと云う事もさる事ながらです。
もうその、もう同じ材料であっても、同じものは絶対に出来ないと云う事なんです。それを、無理してから同じ物を作ろうとすると、それは、もう死んだものになってしまうと、これは花でも同じ事です。これは何の道だって同じ事だと思うんです。その時の自分の魂というものが、ここにその乗り移った様な、その見事なものであればある程にです、もうそれがその都度つどに、微妙なまでに、いわゆるデリケートなものというものが、必ずあると云う事。ですから教えそのものは同じ教えを頂いておってもです、もう昨日と今日というのは、ここに現れるものが違うと云う事。
自分の心次第によってです、同じ具合にですね、形の上でしておっても、材料が同じだから、けれども、出来上がった物は必ず感じが違う、いわゆる、おかげというものがです、創作されて行くと云う事。この創作の楽しみなんです、信心とは。創作の喜びなんです。そこに、日に日に生きるが信心なりと言った様な御教えを、段々、実感的に分からせて頂く事が出来るのです。信心は芸術なんです。しかも話を聞くばかりが能ではない、和賀心からも練りだして行くと云う所に、創作の楽しみ、喜びがあるのです。
どうぞおかげ頂きました。